量より知恵が大事 [広告表現(クリエイティブ)]

(2005年9月26日阪急電車車内にて筆者撮影)
さすが、宣伝上手の誉れの高いハーゲンダッツであると思った。広告の右端をよく見ると分かるが「テント風の紙(カフェラテ色)」は「下側にある紙(白)」とは別になっていて、本当の店舗テントのような形になっている。このデザイン、制作、搬入、掲出のための広告費用(制作費、印刷費、媒体費他)は通常のただのペラ一枚の中吊り広告の数倍以上は掛かるだろう。鉄道会社との実施前の交渉、やり取り、段取り、お願いだけでもたいへんな手間だ。
しかしただのペラ一枚とは数十倍の差をもってハーゲンダッツが記憶に残る。おしゃれ、とも思う人、思うことの量、強さ、思う時間の積算は数百倍、数千倍かもしれない。
ただ既存の実施方法で量さえ、頻度さえ稼げば何とかなるといった考えの送り手と、知恵こそ広告と信じて追求する確信、能力、資源配分(仕事の時間、人材、コスト、情報の掛け方)どれをとっても優れた組織が感じられる。
だから広告の醍醐味があるのじゃないですか!
中高生に10年先のことがはたして分かるか? [送り手の計画]

(2005年9月26日自宅テレビ画面から筆者撮影)
「携帯会社をまたがって買い換えた際」でも「番号を変えずに済む新たなサービス」の導入を睨んで、NTTドコモが打ち出した新使用料割引サービスが「10年超50%」。10年の(売り手の言葉で言う)顧客囲い込みが謳われるのは、変化の激しい携帯業界ではもちろん、他の業界でも極めて異例の超長期サービスの視野である。
しかしながら、10年前、1995年のことを知る人には自明だが、10年後の携帯電話がどうなっているのか、は技術、制度、企業、とどのレベルにおいても「不可能」と考えて良いだろう。ネットとの橋渡し、メール、普及度合い、料金体系、サービスエリア、デジカメ、着メロ、どれ一つとっても1995年に今が(絵空事でなく)説得力を持って見通せた人は居るまい。
その上、携帯ユーザーは中高生以下にまで拡がるのが昨今。例えば15歳の人間に10年後を想定させるのは、これまた至難だ。大学進学(するかどうか)、就職、また結婚、どれ一つとっても「見通せるもの」ではない。
そこへこうしたサービスの告知。年ごとに1%の割引率が言われるから、10年間を今いっぺんに拘束する契約ではないのだろうが。
かつて「落としてしまって」契約時に割引を受けた期間が満たせず、途中解約となって幾ばくか余計に苦々しく払った者として、諸々思った次第。
ファミレスのメディア化 [マーケティング]

(2005年9月17日ジョナサン店内にて筆者撮影)
ファミレス、ジョナサンの季節限定メニューが平野レミさん開発のものを謳う。ファミレスのメディア化、広告化である。考えてみればチェーン展開とはこうしたマス・メディア化できるところ、にぎやかな感じにそのチェーンたるところがあるのだろうと気付かせる。
ファミレスのバラエティ番組化と言っても良い。
我々は「ここにはない情報」をモノと一緒に食べるのであり、情報部分が実は殆どというのが、この手の楽しみと言えば楽しみ。平野レミさんのオリジナルとここで食べられるものが同じ味かどうかは確かめようもないにせよ。
この件の標準的テキストが日本語で読めるのがようやく今年 [文化(文化の差異)]
同書は「加齢学(ジェロントロジー)」についてのアメリカの大学で使用される過去35年にわたり版を10版重ねた標準的テキストの翻訳。この分野でこのようなキチンとした本の邦訳が手に取れるようになったことは、邦訳以前のこの分野のこの国の知識水準に比較すればやはり驚愕だろう。
世界史の中での高齢者の位置付け、現代社会が描きがちな高齢者の社会的ステレオタイプ、生理的加齢現象についての現代の知識、心と知能における加齢現象、アメリカにおける医療・介護・雇用・所得・住居・社会的差別に関する状況記述、信仰と加齢、現代の死、加齢と適応、地域と加齢、
高齢化と政治・経済・行政、将来展望、といった章立てである。
邦訳にあたってはニッセイ基礎研究所が労を取られた。
輸入知識に終わることを良しとしない矜持、また、ことは文化的に異なるから、といった見解も分かるが、それでも「高齢化」がこれほど言われながら、こうした本が翻訳されたのは、ようやく今年の6月というのも何かを象徴しはしないか。
ある世代以上の方には「絶大なインパクト」 [ムーブメント]

(2005年9月東京都港区の生花店店頭にて筆者撮影)
昭和が終わって間もなく、昭和を代表するこの方が亡くなって、はや十年以上が過ぎた。この方が好きだったこの色のバラ(新種)を買えば、一本あたり30円ユニセフに寄付されるという。
詳しくは
http://www.unicef.or.jp/osirase/back2005/0505_07.htm (日本ユニセフ:趣旨)
http://www.tokyo-hananomeitenkai.jp/ (小売団体「東京花の名店会加盟店」)
http://www.la-jacaranda.com/peace%20rose.html (生花ネット販売店:小売例)
を参照ください。
売上の一部を売り手が寄付することを買い手に約束して行う社会的貢献、それが「コーズ・リレーティッド」と呼ばれるマーケティングだ。なかなかこの国ではこうした行為も根付き難かったが今後はどうか。
ま、ある世代(60前後以上でしょうか)以上の方には、今こうしたポスターが生花店の店頭に貼られることは「絶大なインパクト」なのでしょうね。
世界最大の生花マーケット(市場規模)と言われるこの国においても。
農業と言う名のカルチャースクール [送り手の計画]

(2005年9月JR京浜東北線大井町駅ホームから筆者撮影)
特にコメントなし。
我々は何を見ているのか(2) [造形デザイン]

(2005年9月12日JR中央線車内にて筆者撮影)
きれいである。この方(言わずと知れた)、この化粧(舞妓さん)、この撮影(何時間、何カット撮った中の一枚か)、この広告(デジカメの広告)、この印刷(一昔前には考えられなかった高精彩)である。CG処理も制作プロセス(ポストプロ)で多用されたに違いない。
そうして、見る人は「きれい」と思う。
あのような肌はさすが芸能人、手入れが違う、化粧でいかに近づけるか、あのようになりたい、あのようにあのデジカメだと写るのか、などと色々と思う(実際には画素の多いデジカメで撮った顔は実に細かな所まで写ってしまう、いわば「女優殺し」の一般化なのだが)。
見る人は、何を見てそう思っているのだろうか。
もはや、見ているそのモノは「作り上げられた」「この世のものではない」。生身の身体である人間が、「作り上げられた」「この世のものではない」ものに、「なりたい」と思う。
ヒトがヒトではないモノ、いわば人工物、サイボーグに憧れる。
我々は、はたして何を見て、何を願望しているのだろうか。
何なのかが分からないCM事例 [送り手の計画]
パチンコ機器メーカーの平和やサンキョーのテレビCMは、ご記憶にある方も少なくないのではないだろうか。これらの広告の目的は何なのだろう、ということが長年私には分からなかった。テレビCMの表現内容は、平和の場合、アントニオ猪木氏のCGが今まさに戦闘を始めようとする2つの軍隊に割って入って、チューリップに猪木氏が化けて「平和」と言い戦闘を食い止める、といった内容のもの、続いて現在は、ライオンとシマウマが抱き合って涙を流し、それを見ているアフリカ人の人間や他の動物も涙を流し「平和」と文字が入るものである。

(2005年9月22日テレビ画面から筆者撮影)
サンキョーの場合は、志村けん氏がチンパンジーと一緒に散歩し、足を上げる女性の真似をチンパンジーが上手に行うのを見た志村氏が、またそれを一緒に真似ようとするものがある。
このテレビCMを見て、一般のパチンコユーザーが「平和の台で打ちたい」とか「サンキョーの台で打ちたい」と思うとは思えなかった。もしそうならばもっと具体的に何らかの新型台をCMでも取り上げ説明し写すはずであるからだ(実際過去には他社も含めてそういった表現のテレビCMもあった)。大学では「広告論」を担当しているから「最近の広告を分析する」といった文脈で、これらのテレビCMを「分からない広告」として「もし狙いが分かる人が居たら教えてください」と妙な話だけれども教壇から問いかけた。するとある学生が次のような広告の狙いを解釈して私に披瀝してくれた。
パチンコホールは繁盛している店と繁盛していない店に分かれている。ホールの経営者は「儲かっている店は、自分の店の台とは違う特定のメーカーの台を入れているから儲かっているのではないか」と推論する。全国的にそのような選択の結果、そうして選ばれる率の高いメーカーは、また「儲かっている」ことになる。どのメーカーが儲かっているのかは簡単には比較しにくいから、とりあえず「広告をテレビでやっているメーカーは儲かっているのだろう」と推論を進める。したがってホールの経営者が台の入れ替えを行う際に、テレビCMを行っているメーカーを選ぶ確率が高くなるのではないか。それを織り込むような形で考えて、パチンコメーカーがテレビCMを行う狙い、目的が解釈可能であろう。概要このような推論、解釈であった。
このパチンコメーカーの広告目的についての推論が適切であるか、全く実は的外れであるかについては、私は判断できるだけの関連知識が手元にある訳ではない。しかしながら、この(おそらくはパチンコ・パチスロのファンである)学生の推論、解釈は論理的であり極めて適切で、一般には分かりにくい広告目的の解釈事例のひとつと考えても良いように思えた。
「効果的な広告展開」をあらためて考える際には、「どのような状況に照らして」効果があったか、さほどでもなかったか、が最も重要な論点となる。その状況は関係者以外には分からないものもあろう。このエピソードはそのような状況を今日的に語るように思える。
このように広告物だけを見ていてもさっぱり分からないことの一端がこのCMの中心的な部分なのである。
ウーノ、巧い [広告]
ギネスブックに載るために「1日で何種類のCMを同一局に流したか」に挑戦しそれを成し遂げPRにも使ったのが資生堂UNO(ウーノ)。
それもあまたの出演者を使ったから「随分とお大尽だな」とも思っていたらば、この駅貼り。

(2005年9月10日東急東横線菊名駅にて筆者撮影)
確かに「一回のCMオンエアのためだけに契約も撮影もやったわけじゃない」から上手な展開。
その後テレビも引き続く。

(2005年9月22日テレビ画面から筆者撮影)
こうやって、半年なり一年なり(場合によってはもっと)長く細く(再)利用することを前提とすれば、キャンペーンの開始を「ギネスに挑戦」としたことは、深慮。
私などは40代でおそらくこのブランドのターゲットじゃないから、出演者も名前が殆ど分からないが、それでも「あぁ、あのウーノ」と再認識がその後もずっと可能な仕組み。
ブランドのリニューアル、さすが巧い、と思った次第。
ついにグラフ化、1357万件のNHK不払い [メディア]

(2005年9月23日朝日新聞から部分を筆者がスキャン)
国会答弁でも「支払拒否」の数(100万弱)しか言わなかったり、世帯(家庭)以外にも事業所が含まれていたり「全体像」がなかなか一般には分かりにくかったNHK受信料支払率だったが、今日の朝日新聞で遂に(放送法32条に定められた)受信契約するべき件数全体に占める不払いがグラフ化され記事化された。もちろんすべてに目配りしている訳ではないが、こうした一目で分かるグラフが公表されたのは初めてではないだろうか。要は「支払拒否」の外に「その7倍(958万÷130万として)」もの「未契約」があったのである。これらを足してみると全体の3割もの数が「NHK受信料不払い」となっている。
法的支払い督促(簡易裁判所を通じた民事訴訟法上の手段)を方針とする旨、NHKが9月20日に発表したことから記事となったようだ。具体的にはNHKからの申し立てを受けて簡易裁判所からの督促状が該当視聴者に送付される、とのこと。
徴収に従事するNHK地域社員のご苦労はある。しかし3割となると「法自体」の意味についての議論が今後社会的に相当活発になるだろう。唯一の公共放送が国民(正確には事業所が含まれるから違うが)の3割に法的措置に及ぶ。異常な事態である。
この朝日の記事の中には、この6月時点の新しい数字として「1週間に5分以上」NHK総合チャンネルを見た個人は全国で62%とも書かれている。実に38%は「1週間に5分以下」しか見ていないのだ。
いよいよ「放送法」に定められたNHKの制度的存立が問われることになりそうな勢いを感じる。
番組提供とは? [業界]

(2005年9月23日テレビ画面から筆者撮影)
民放において、最大かつ唯一の商品は「番組」であったはず。番組と番組の間(ステーションレーク)のスポット売りは歴史的にも原理的にもその後の「派生商品」だ。
一方、現在の「番組提供」はこのように扱われる場合がある。売り方はスポットと基本は大差ない。PT(パーティシペーション)とも(原義は違う)ネットスポットとも(これも意味するところは違う)番組のスポット売り(これが実は正しい)とも業界では言われるようだ。
競合社を(広告主が了解していたとしても)入れること。これはいったいこのようにいつから「常態化」したのか。
広告の仕事はひとつひとつ「仕立て仕事」 [広告表現(クリエイティブ)]

(2005年9月10日大阪地下鉄車内にて筆者撮影)

(2005年9月21日東急東横線車内にて筆者撮影)
東京大阪で同じ英会話学校の広告を見て、「ラインマーカー(緑の字の上の強調色)」が気になった。全国の教室が印刷してあるが、その近傍の教室、強調したい文字だけにマーカーが重ねられている。これは手作業か否か。手作業ならば、印刷された一枚一枚に掲出路線ごとに「人間が手で『緑のラインマーカー』で上書きして行く作業」となる。マックで手書き風DTPであっても、基本は同じ。大阪版が何枚、阪急に何枚、地下鉄に何枚・・・、東京版が何枚、東急に何枚、地下鉄に何枚・・・、締め切りも枚数も、他と間違いなく、紙と掲出先が合致してアロケーション、デリバリー、コントロール(事故時の対応)がなされなければならない。


(同部分拡大)
拡大部分です。さあ、これははたして「手書き」でしょうか。それともMACですか。後の手間は実は同じでそれだけでもたいへんですが、これも手書きとなれば、「仕立て仕事(テーラーメード)」のたいへんさは、さらに凄まじい量、人手作業となりますから。どうでしょうか。
派遣のヒトの気持ちの分かった広告 [消費者洞察]

(2005年9月20日東京メトロ車内にて筆者撮影)
この広告を見て、おそらくは、大抵の人材派遣会社では「ちゃんとヒトの話を聞いてくれる」ような状況ではないのではないか、と思えた。たしかに人材派遣法施行以降、この国ではもう当然のこととなってしまったが、派遣元に雇用されつつも、実際の勤務は派遣先という、それ以前と比べれば(多様で自由ではあるけれども)複雑な労働形態が「派遣社員」としての勤務形態である。
派遣元に何かクレームを行って、派遣元が派遣先に何かを言うよりは、「じゃ違う所に行きますか」といった会話がすぐなされる可能性も推察される。
マンパワーはこの業界の草分け的老舗(しにせ)。老舗は老舗なりの重みと値打ちがありますよ、といった広告。
広告業界からの社会的メッセージ [ムーブメント]
書評を書きました。
今年の目立ったものだけでも、「キャンドルナイト」「打ち水」(以上は地球温暖化)「ホワイトバンド」(子どもの貧困)「ビーチクリーン」(海岸清掃)などボランティア的・公共的な運動がある。長年低いと言われてきたこの国の公徳心、公共関心もネットとの出会いもあって常識が変わってきたのではないか。
常識というと、そもそも100キロまでの体重計では何トンもの象は測れず、30センチの物差しでバスやトラックの全長はなかなか視野に入らない。本著は公共的関心に注目が集まりつつあるとは言え、まだまだ広告関係のサラリーマンにも「縁遠い」公共広告の「世界初の専門研究書」。その重みや意義は、多くの人には「埒外」とも映るだろう。けれども、冒頭のような時代を迎えこのような書が生まれたことは、むしろ比較的若い世代に対し、等しく広告関係者が誇れることかも知れない。
社会的なムーブメントが既存の広告業界からも生まれ得る。広告の「反社会性」も併せて真摯に考えれば、広告を通じて何が可能か、を問い続けることは広告の送り手の(全てではないが)ひとつの社会活動なのだ。そのような意味で読み手の能動的な行動の手掛かりとして広告を考える「伯楽を待つ」名著が本書である。
うまい、と思わず唸った「秋味」 [マーケティング]

(2005年9月テレビ画面から筆者撮影)
①発売後、約10年を経過し「味」の完成度が上がった
②日頃、発泡酒やその他雑種②(笑)を飲みつけている舌にはこの濃厚な味が新鮮だった
③この国の産業化された製品群に対する「味気なさ」をマス・マーケティング側が洞察(もともとビールに季節感、は欧米では理解しにくいこの国ならではの楽しみ。また、さんま、馬肥ゆる秋、これこそ産業化と都会化が失った郷愁)
あれやこれやで「うまい」と思わず唸った今年の「秋味」。
関西では「ぶたまん」 [文化(文化の差異)]

(2005年9月大阪市営地下鉄車内にて筆者撮影)
私自身は、関西圏で高校卒業まで過ごし、30年近く東京で学生と会社人をやって、このところ関西関東を行ったり来たりの生活である。
東京で「ブタマン」と言って笑われたことは大きなショックだった。誰が言い始めたのかは知らないが、東京では(気取って?)「肉まん」と呼ぶ。
しかし関西ではたして一般にそう呼ぶのかどうか、に関してはさほど自信を持って、証拠もあわせて言い切ることもさほど簡単なことではなかった。自分の狭い人間関係だけが「妙」で「下品」だっただけかもしれないからだ(したがって私にとっても「沈黙」が「螺旋」した)。
しかし、この広告。あきらかにこの手のものを「ぶたまん」と呼んで良い、あるいは、少なくともメジャーな売り手がそう呼んでいることが確信を持って言いうる証拠である。「とんまん」とはさすがに読まないからだ。長年のつかえが降りた広告(大げさですか?)。
肌がきれいなら「すべてうまくいく」のか? [広告を学ぶこと]

(2005年9月21日大阪市営地下鉄車内にて筆者撮影)
出版社が雑誌と雑誌広告で何を謳おうと「言論・出版の自由」である。憲法に保証された権利である。
他方、そのコピーが「論理的」ではないのは一目瞭然。肌がきれいであれば、何もかもうまくいくのであれば、他のことは一切しなくとも欲望も理想も人生の目標も達成されることになる。そんな道理はどこにもない。
また一方、社会にはアトピーで悩み、それがなかなか直らない人も少なくない。
思春期前半の女性がこうした広告を、極めてありふれた「社会的価値」「代表的顕現(マスメディアに乗り世に広く目立つこと)」を知らず知らずに受け入れることと、このような広告が無関係とも思えない。
言論・出版の自由と、受け手の知性、理性、またその「意図せざる結果」の三者の関係は、きっぱりとは割り切れず、この国に溢れ、角を突き合わせ続けている。
我々はいかにこうしたことを考えてゆけば良いのだろうか。
金融商品についての都市銀行の説明 [広告を学ぶこと]

(2005年9月東京三菱銀行店内で筆者撮影)
ここには都市銀行という身近な金融機関が「金融商品の勧誘にあたってどのような方針」であるか、に関しての説明が、来店客の誰にでも見られるようになされている。こうした掲示がかつてはなかったことと比べれば、たしかに何かが改善された、とは言えるだろう。
ただし、今、都市銀行が販売に力を入れている金融商品に(外貨建て預金や投資信託などに加えて)「個人向け国債」があることもまたあわせて考えなければならない。「判断に必要な商品内容やリスク内容など適切な情報」を「客が自分の判断と責任」で「購入・選択決定するために提供する」とあるから、国の借金700兆円以上という状況についても「適切なリスク情報」を提供してくれる、と考えて良いのだろうか。
「適切」とは何か。「判断に必要な情報提供」とは何か。
こう考えれば、この文言の限界と恣意性(解釈が実は相当いかようにもなされうること)が分かるのではないか。
書いてあることは、書いていないよりは良い。ただそれが何を意味し、誰を守ることなのかは、また別のことなのである。
変なグラフ [経営リスク]

(2005年9月20日東京都港区にて筆者撮影)
学習塾のガラス塀にこのチラシ様のポスターが張ってあった。
見れば変なグラフである。あらかじめ右ほど上に傾けて「グラフ」が書かれているから、同じ程度の数値での「折れ線グラフ」でも、「上がった」ように見える。
これですんなり納得するような親なら、親の方がもう一度勉強した方が良いですね。自社社屋や新聞折込チラシの類はネット同様、マスメディアに比べても「いい加減な」広告表現が今でも多い。その一種。
時代で「許されること」は変わるが・・・ [送り手の計画]

(2005年8月30日東京都港区にて筆者撮影)
早稲田もそうだが、もともと地名か大学名かが判りにくいものがある。三田(みた)が地名なのは兵庫県の三田(さんだ)と同じ。したがって、近傍の企業や商店は自由に地名なら使えるのが道理。
しかし慶應はどうか。
もちろん、慶應は明治の前の「元号」だから、固有名詞かどうか、についてはやや専有性には欠けていた。だがこと「三田慶應」となれば話は別。これで「学校法人慶應義塾との関係を意味しない」「関係付けようと思っていない」などとは、もはや言えないだろう。
どのような「関係」をこの(おそらくは小学生向け、つまり慶應の中等部=中学校向け等)学習塾・進学塾は言わんとしているのだろうか。なぜ平易に「慶應中等部受験塾」と書かないでこんな変な書き方をするのだろうか。(今出川同志社、紀尾井町上智、駿河台明治・・・ならどうですか?)
「李下にて冠」の例えもあります。許されない時代になってから気付きますか?それとも・・・。
数あるムーブメント [ムーブメント]
ネットの時代、善意のムーブメントには数々のものが見つかる。上記は私も良く伺う「ITとマーケティングに詳しい」藍旋さん(http://twobcherry.seesaa.net/)のところで情報を得た。
様々でしかし似て非なるものもあるようですね。
江戸開府から400年で・・・ [ムーブメント]

(2005年8月東京都世田谷区で筆者撮影)
「江戸開府400年東京」と書いた旗が商店街に掲げられて久しい。商店街の活性化が言われるのは東京も例外ではないのだ。選挙でも地元意識は乏しいのは、商工自営業と呼ばれる人の比率が減って「サラリーマンが働く人の8割近く」となれば(労働組合組織率の低さも相まって)もはや「当然」とも考えられる。
この街で、この旗。この目的、このコスト(当然都か区など公的なところから支出されているのだろう)。自民党候補者などが言う「地元の活性化」「地域住民の地元意識作り」は、結局この旗代になっているのか、と思えば、さて、この旗もこれで良いのだろうか。
自分の道を歩くのだ・・・ [消費者洞察]

(2005年9月JR車内にて筆者撮影)
コカコーラ、ジョージアの広告が、男の安らぎ(「安らぎパーカー」プレゼントなんてありましたね)→明日があるさ(吉本総出演)→次ぎ行ってみよう(3人組の女性陣)、と変遷した後、この交通広告を見かけたものだから、実は「ややがっかり」していた。
ところが、テレビCMを過日知り、驚いた。
http://www.georgia.jp/cm/index.html
野茂英雄投手、竹中直人(俳優/監督)、丸山和也(国際弁護士/24時間テレビマラソン)の3氏の若かりし日の映像と今を重ね、和田アキ子さんの歌「あの鐘を鳴らすのはあなた」が被さり、「自分の道を歩くのだ!」となる。
これは、久々の人生の応援歌。若かりし日の不安の中の選択がなければそれらの人たちの今はない。バブル崩壊以降、もう十数年もこんな「前向きな勇気への応援」が似合わなかった時代だったのか。久し振りであるだけに、ジョージアを飲む時、一瞬よぎる「若々しい勇気」への思いが嬉しい。考えてみれば「次ぎ行ってみよう」は「次ぎ行ってみよう」じゃ伝わらなかったのかもしれない。今ようやく「次ぎ行ってみよう」と勇気が湧くのだった。
そうか、ジョージアのブランド・コンセプトは「働く若者の人生への応援」だったのだ。人生の応援は、やはり今回のように「選択の岐路」に立った際がクッキリしますね。
不発の「着眼点」 [大企業]

(2005年9月東急自由が丘駅にて筆者撮影、ホワイトバンドが「New」)
東横線などをお使いの方には渋谷の本店(?)も含めてかれこれ10年近く前からお馴染みなのがこの「ランキンランキン」。雑貨やトイレタリー、加工食品類を中心にその「製品カテゴリー」での「ランキング」上位何位かが「ランキングの高い方から」売っている、それが「駅中(えきなか)」にある、という画期的な小売業態だった。元になるデータは東急ストアなど東急系のPOSデータとも聞いた。
ところが、開店後、さほど時間を置かずにその魅力はすぐに失われた。要は「製品カテゴリー」がメーカーと東急側の「慮り(何が売れてて、何がより人気ではないのか、を駅で公表すること)」からか、微細化され意味を失ってしまったのだ。
例えば「パーティグッズ」で1位、「筋トレクッション」で1位、などといったものなのだ。過去には「花粉症立体マスク」、「風呂で使えるメイク落とし」などの記憶もある。また「New」と書かれたランキングではない新発売モノも今はたくさん陳列されている。

(同上)
もともとは、「ガム」で1位、「歯磨き」で1位、「カップ麺」で1位、「500mlのペットボトル入り日本茶」で1位、などが見る方は「知りたい」はず。しかしメーカーは「(僅差の場合もある)2位以下が売れなくなる」などと東急を懐柔したのか、結果、訳の分からないカテゴリーや細かすぎて意味の無いカテゴリーばかりが今や「当たり前」となった。あるいは東急側が「ランキンランキン」をメーカーに対して「支払えば陳列できる」場所として売ったのかもしれない。
何がどの程度売れているか、という情報は上手に使えば「商品ジャーナリズム」に通じる。なぜならその情報は「ニュース」だからだ。小売にその志があれば、今までには無かった「生命」がこのランキンランキンには宿ったはず。しかし既存の取引の仕組みにまみれた結果、この駅の一角は奇妙な「コンビニともKIOSKともつかぬ」時間つぶしの場所として存在している。
どちらも知りませんでしたが。 [送り手の計画]

(朝日新聞より筆者撮影)
コメントなしでエントリーします。千里山一里らしいコメントはどういったものであるとお思いでしょうか。想定してコメントしてみてください。
転職予備軍の気持ちの分かった広告コピー [消費者洞察]

(2005年8月朝日新聞広告から筆者撮影)
勤めて数年かあるいは十数年か、「言いたいことも言えない」。そんな気持ちになったことがない、というサラリーマンは稀だろう。
加えて「言いたいことを、聞け」。理解するのにしばらく時間が掛かった。しかし、しばし考えて、「あ、自分が『言いたくなる』ような『納得できること』を言う上司や先輩、『聞きたくなる』ことを言う周囲が居ない人」が想定されているのだ、と思った。
(仮にこの解釈が合っていれば、であるが)思わず「ヒザを打つ」とはこのようなことだ、と思った次第。
なぜこういった「逆ざや」の利率? [大企業]

(2005年8月28日29日付け日本経済新聞より筆者撮影の上加工)
日を続けて同じ新生銀行の広告を見て、目を疑った。お金を5年預けて利息1.1%。住宅ローンを組んで5年で利子1.0%。
逆ざやである。なぜこうしたことが起きるのか?金融専門の方のコメントが欲しい所である。
シナリオ通りか [政治広告]

(2005年8月30日東京都港区にて筆者撮影)
朝日新聞の天声人語では4年前の写真と言われたものがあったが、それがおそらくこれか。昨今は織田信長の他、高杉晋作、坂本竜馬と歴史上の「信念の人」の系列にまで擬せられる新聞や雑誌記事が散見される程。ただ、けして「事後的な分析」ではなく、民主党の「日本をあきらめない」に比べて「分かり良い図式」を描くのに成功した、と言って良いだろう。
『週刊朝日』最新号で「チーズ事件」と名付けられた森前総理から、清貧=信念のシナリオもあったようだ。
民主党党首選で、菅氏は「争点が挙げられる」と言っていたのは「争点設定」「議題設定」と訳されるAgenda settingをご存知の様子。その菅氏も党首選に昨日敗れたが。
自民党の広報を今回仕切った世耕氏はボストン大学でコミュニケーション論専攻の修士(MA in communication)とも聞く。そんなマスコミ論の図式があまりにも当てはまった今回の選挙だった。
ホワイトバンド、その後 [ムーブメント]

(2005年8月東京メトロ車内にて筆者撮影)
特定メディアにおいても、異例の「肩入れ」が始まった。
過日、学生40名ほどにに「ホワイトバンド認知」を尋ねる機会があったが、90%程度の認知率だった。自分の善意、寄付、あるいは主張を「身に纏う」ことは、今までには「赤い羽根」「緑の羽根」を除くと、なかったのではないか、と思わせる例外的なことが今起こっている。
街で人から「観察される」形で何かの普及が促進・加速される、というのは「普及学」の実証的命題のひとつ。古くはジーンズ、新しくは携帯やMP3プレイヤーなどがこれに当てはまる。加えてネットがこれに拍車を掛けた。バナー(リンク)を自分のBlogに(自主的に)貼る人の数はどう勘定すれば良いか分からないが、かなりのものだ(私も一枚だけ貼った)。
引き続き推移を当ブログでも注視して行く。








